ぐるぐる

日記

1/4日記

昨日の日記で今日からヴァージニア・ウルフの「波」を読む予定だと書いていたけれど、結局今日は乗代雄介の「皆のあらばしり」を読んだ。

乗代雄介さんは「旅する練習」が傑作すぎたから芥川賞候補になって落選した時、信じられなかった。三島賞をとってくれたからなんとか溜飲をさげられたけれど、芥川賞とれたと思う(しつこい)。あの作品は小説としてテクストが存在することの意義、書くことの意味が明確な理由のもとに担保されていて、読んだ時には圧倒された。それくらい良かった。「旅する練習」の感想はまた別の機会に再読して書きたい。再読を要請する小説だったから。

再読を要請する小説で言うと、今回の芥川賞候補作「皆のあらばしり」についても同様だと思う。

以下、ネタバレを含む。

高校生が語り手の小説は、最近の乗代さんの作品からすると珍しいという感じで、しかも語られることはほとんど城趾での場面に限定される。「皆のあらばしり」という存在自体があやしい書物についての調査を、青年と男がその所在について追っていく形になっていて、安楽椅子探偵もののようなミステリ的にも読める作品だなと思った。ほとんどが会話で構成されていることもあって、乗代さんの素敵な地の文が読めないことは少し残念だった。それでも、ストーリーテリングのうまさは相変わらずで、謎解き要素は「本物の読書家」に近いところがある。「本物の読書家」に近いところで言うと、関西弁の該博な男が登場していて、同一人物のような感じもする。ここも再読して照らし合わせてみたい。

個人的に、青年の男との会話での言葉がすごく上手いなと思った。歳上の人と会話する時、大抵は敬語になってしまうものだけど、朴訥ながらタメ口をきいている感じ。対等でありたいとする青年の背伸び具合が絶妙。それは会話だけじゃなくて、行動にも表れていて、それが騙し合い(とその種明かし)のラストへと繋がる。

そして物語の最後、突然荘重な文体に切り替わると共に、語り手も変わって、この小説がどうしてこういう形で語られたのか、小説内部での楽屋落ちがされていて、してやられた!という気持ち。小説内でメインに活動しているはずの青年の語りにしては城址以外の場面の描写が少なさ、地の文の少なさ、といったものの必然性が明確化される。小説内での語りの企みが明かされて、思わず膝を打つような気持ちいい読後感がある。青年の語りを青年のものとして読んでいたから、違う視点で再度楽しむことを前提に設計してくれているなんて嬉しすぎる。小説は再読してなんぼだけど、そういう意味とは違った再読の要請がこの小説にはある。いまから再読が楽しみ。

難しいことはさておき、とにかく面白かったから芥川賞とってほしい。今回発表されるまでに読める候補作はたぶんこの作品だけになるだろうけれど、乗代雄介は誰もが納得する面白さだと思う。ひとつ気になるとすれば、エンタメに傾いてるとも読めるからそこを選考委員がどう評価するか、かな。

芥川賞もジャッジをジャッジがあればいいのにと思う。あんまり誠実な選評とは言えないものもあるから、納得するのも難しい気がする。勝手な読者(読者はみんな勝手だけれど)としては、最近の選評の酷さには納得がいってない。